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第百話「世界を代表する打放しコンクリート作品とその建築家」  丹下健三  

 1913年、大阪府堺市に生まれる。幼少を四国今治にて過ごし、17才当時の広島高等学校へ。文学や芸術に傾倒、たまたま外国雑誌で知ったル・コルビュジェの「ソビエト・パレス」の写真に衝撃を受け人生の転機に立つ。
 1933年東京大学建築学科を志すが、2年続けて不合格。こんなことがあったのですね。22才で東大建築学科に、卒業後ル・コルビュジェの門下生“前川国男”建築設計事務所へ。若輩にも拘わらず岸記念体育館や社会事業会館の設計を担当、当時26才。その2年後東大大学院に。1941年以降建築家としての花々しいスタートを切る。日本建築学会主催コンペに尽く入選。引き続きバンコクの日タイ文化会館コンペに入選、3年連続して取った大きなコンペで一躍その名を知られる。
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 1946年36才、原爆ドームに隣接して建てられたかの有名な打放しコンクリートによる広島ピースセンターを皮切りに国立代々木競技場、大阪万博と打放しコンクリート名作品を送り出す。
 打放しコンクリート建築の一時代を代表する華々しい実績を打ち建てた建築家。
 丹下健三は巨大になりすぎた多面体の建築家ともいわれ、「世界の丹下」として日本で初めて世界的な高い評価を得た建築家としても多くの人々の記憶にある。
 2005年91才で死去。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2007-06-25 07:19 | ブログ

第九十九話「世界を代表する打放しコンクリート作品とその建築家」    E・オーエン・ウィリアムズ

 イギリスを代表するウィリアムズの1932年の作品、ボーツ薬品工場。屋根の一部を除いて全て打放しコンクリート造。ホールの屋根は鉄骨トラスだが、二次的な梁はすべて打放しコンクリート
 屋根は良好で光をもたらす網状構造に円形ガラスタイルが嵌め込まれている。イギリス・ノティンガムに建つこのボーツ薬品工場は構造と機能を統合的にした工場建築としてしられる。
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 この時代国内は関東軍の独走による満州地域の占領、国際社会での孤立を恐れた時の首相犬養毅はこれを承知せず、右翼集団によって暗殺。5.15事件として日本が戦争への道を歩み始めた忌まわしい時代の幕明けでした。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2007-06-18 07:27 | ブログ

第九十八話「世界を代表する打放しコンクリート作品とその建築家」    ピエール・ルイージ・ネルヴィ 

 1891年イタリア・ソンドリロ(ロンバルディア州)に生まれる。1913年ボロニア大学土木技術科を卒業。
 ネルヴィは責任感と潔癖感のカタマリと言われ、意匠、構造、施工まで一切をネルヴィ流にまとめあげるだけでなく理論より現場を重視。骨格である構造と数々の建築を通して、改善に改善を重ね独自のものを確立したといわれています。
 1932年イタリア・フローレンスに建築されたジオバニー・ベルタスタジアム。競技場の正面スタンドを覆う長さ100mと22mの跳ね出した屋根は、水平距離17mが片持ちにされた打放しコンクリートによるもの。
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 打放しコンクリートの構造美と建築美の融合されたこの作品によってネルヴィは世界に知れ渡ったといわれています。
 その後ネルヴィは1946年ローマ大学建築学部構造学専任教授、1950年ブエノス・アイレス大学の建築教授を歴任。1957年にはウィーンのオーストリアGewerberメダル、フィラデルフィア・フランクリン協会のブラウン・メダルを受賞、1960年には英国王室建築協会のロイヤル・ゴールド・メダルを受賞、同時にエディンバラ大学法律博士、翌年にはモナコ高等技術学校教授に。
 実践と学者の道を両立させた偉大なる建築家、1979年ローマにて死去。享年87才でした。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2007-06-11 07:20 | ブログ

臨時掲載!「建築雑誌」2007年06月号|連載・モノづくりビト-18

連載|モノづくりビト-18|蟹澤宏剛[芝浦工業大学准教授]|撮影=牛尾幹太
打放しコンクリート仕上げ ニチエー吉田[静岡県・浜松市]

打放しコンクリートを美しく仕上げることがいかに難しいかは、ここで詳述するまでもあるまい。そのノウハウはさまざまあれど、具現化は有能な技能者と管理者次第であるといっても過言でない。昨今、それが簡単にかなうような状況にはないにもかかわらず、端正な打放しの建物が多くなったのはなぜか。その背景には、もはや補修の域を超えるまでに進歩した仕上げ技術である。
従来、ジャンカやコールドジョイント、色むらなどの補修は左官や塗装の範疇と考えられていた。しかし、どんなに熟練した職人技をもってしても、その痕跡を消し去ることは極めて難しい。また、コンクリート表面には耐水、耐候性向上のために防水や撥水処理を施すのが一般であるが、耐久性の問題や塗布による色むら、いわゆる濡れ色などの意匠上の問題が存在し、どれも一長一短であった。それを、ある意味逆転の発想で解決したのが「吉田工法」である。
吉田工法は、新築および経年劣化の補修・再生に対応するが、いずれも素地の不具合を修生した後に、その場にふさわしい型枠のテクスチャを復元し、耐久性向上のための表面処理を施すトータルな仕上げシステムである。
その生みの親、吉田晃さんがニチエー吉田を創業するのは1959年。当時は、前川國男、坂倉準三、丹下健三らに代表される打放しの全盛期。多くの現場でその補修に頭を悩ませていることを知り、新分野の開拓を決意するも、それは無謀な挑戦であった。師範学校卒業の吉田さんは建築や材料の専門教育を受けていない。実際、最初は失敗の連続で、さまざまな問題の克服には20年余りを費やすことになるのであるが、これほどまでのエネルギーの源泉は何だったのか。
浜松といえば、ホンダやヤマハ、スズキなどの発祥の地。そこには、なんでも挑戦してみなければ始まらないという「やらまいか精神」が宿っている。また、吉田さんの発明はモルタルへの樹脂の混合、撥水剤と塗膜の重ね塗りなど、当時の常識ではあり得ない試行錯誤の末に生まれたものであるが、そのヒントの多くが自動車やピアノの製造技術にあった。
最近、類似の工法も多くなったが、安易な外注化やフランチャイズ化に走らず、大卒の社員を育成して現場に送り込むという品質管理体制に容易にはかなうまい。その実体験は新たな発明の種となる。専門工事業のひとつの規範がここにある。
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1:吉田工法による仕上げの例。多くの有名建築で採用されている。
2:本実をはじめ、さまざまな型枠のテクスチャを写す道具やピンホール、コーン跡をつくる器具など実にユニーク。
3:この小さな研究コーナーから新たな発明が生まれている。
4:打放しの仕上げはいくつもの工程からなる。
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by pikayoshi72 | 2007-06-04 16:47 | ブログ

第九十七話「世界を代表する打放しコンクリート作品とその建築家」    ル・コルビュジェ

 近代建築の三大巨匠と呼ばれるル・コルビュジェ。1887年スイスで生まれフランスで活動。意外なことにル・コルビュジェは大学で正規の建築家教育を受けていないとのことです。
 1908年パリへ。鉄筋コンクリート造の先駆者オーギュスト・ペレの事務所に在籍、その2年後ドイツ工作連盟の有力者ペーター・ベーレンスの事務所に転じ、ここで建築を学ぶ。1911年から半年かけて東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る旅へ。一連のこの行動パターンはかの建築家安藤忠雄に何か想起させるものがありますね。
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 1955年竣工のカニの甲羅を形どった独特の形をしたロンシャンの教会。打放しコンクリートの代表作品としても紹介されています。
 一方、松方コレクション返還に際し1959年に建設された東京国立西洋美術館、その基本設計に携わり、実施設計は弟子の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が担当した。いずれの方々も日本に於ける打放しコンクリート建築の草分けとして数多くの作品を残されていることはご存知の通り。
 打放しコンクリートは近年益々身近なものとなって、住宅やブティックまでにも浸透し、心に潤いと安らぎの空間を醸成していますね。
 最後に1965年ル・コルビュジェは、南フランスのカプ・マルタンで水泳中に死去、
78才でした。ご冥福をお祈り致します。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2007-06-04 07:20 | ブログ