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第四十六話 「打放しコンクリートの日本を代表する作品とその建築家」 浦部 鎮太郎

 浦部先生は関西を拠点に活躍した建築家。
打放しコンクリートについて関西の地域性を浦部先生はこの様に話しておられたとのこと。
つまり、打放しコンクリートに対し関東は構造を強調しているのに対し、関西は表面の仕上げに綿密さがある。
この理由は関西特有な古い歴史と遺産、これを根源として着物柄一つにも関西人の感覚が生み出すテクニックは関東人にはない。
この違いが織り成す作品に反映しているとのこと。
 浦部先生の代表作品、1963年倉敷国際ホテル。
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その佇まいは、伝統的街並みの美しさを残す倉敷に、打放しコンクリートのよる広い庇と蔵屋敷の白壁をモチーフとした外観、建物全体にわたって民芸調のデザインは、倉敷の町中に溶け込んだ優れた建築作品といわれていますね。
地域と環境に同化した建築作品は、人々の情感を刺激し自然との共感を呼び起こすとか。
関西の建築家代表浦部先生に注目。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2006-05-29 07:21 | ブログ

第四十五話 「打放しコンクリートの日本を代表する作品とその建築家」 今井 兼次

 建築家今井兼次。
戦後、キリスト教信者となる。
今井先生の打放しコンクリート建築代表作の一つ、日本二十六聖人記念堂。
キリシタン禁制の江戸時代、長崎市・西坂で処刑された二十六の殉教者を記念する聖堂と資料館。(1962年)
その作品は30年來傾倒して来たアントニオ・ガウディの信仰的創造精神にあるといわれています。
 今井先生の師とあがめるアントニオ・ガウディ、余りにも有名で知らない人はない位だと思いますが、かの未完の建築、サグラダ・ファミリア聖堂、ご存じですね。
アントニオ・ガウディの最高傑作“聖家族聖堂”ともいわれていますが、実はこのサグラダ・ファミリア聖堂の最初の建築家はガウディではなく、彼の師匠であるファン・マルトレイ。
その師匠に推挙されてアントニオ・ガウディは、1883年から1926年の43年間、この作品の制作にかかったそうです。
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余談になってしまいましたが、サグラダ・ファミリア聖堂の生い立ち、実は私も知りませんでした。
今井先生の作品は、傾倒して来たアントニオ・ガウディの信仰的創造精神を継承、祈りの造形に徹しこの日本二十六聖人記念堂はその最たるものだそうです。
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 打放しコンクリートとフェニックス(エジプトの伝統的な霊鳥)・モザイクを外壁に使用し宗教的のものを醸し出した作品。
今井先生は92歳でご逝去、ご冥福をお祈りいたします。
次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2006-05-22 07:28 | ブログ

第四十四話「打放しコンクリートの日本を代表する作品とその建築家」増沢洵

 1952年当時、増沢先生はアントニン・レイモンド建築事務所のスタッフでした。
この頃たまたま住宅金融公庫の融資に当選し、その資金で建てたご自身の木造住宅がデビュー作品で、打放しコンクリート建築ではありませんでした。
その小住宅のコンセプトは日本の木造建築の伝統的手法に和の雰囲気を漂わすモダニズム建築。
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しかも近代建築の理念である合理的且つ機能的なものに同化させることで建築界に新風を吹き込んだとされ評価されました、当時若輩の26才。
1956年増沢先生はアントニン・レイモンド建築事務所より独立。
目的は母校である成城学園の設計に専念する為で、1957年増沢先生は打放しコンクリートによる成城学園を、次いで翌年には成城大学新館を建てられました。
何れの作品も日本を代表する打放しコンクリート作品に選ばれています。
この頃、日本は神武景気といわれ戦後の貧しさから脱却、電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビなど文化生活の必需品と位置づけられ家庭での三神の神器といって沸き立った時代でもありました。
同時代 前回ご紹介した菊竹清訓先生、丹下健三先生など著名な打放しコンクリート建築が目白押し、まさに打放しコンクリート建築の全盛期。
なお、増沢先生は1990年65才の若さで逝去されました。
ご冥福をお祈り致します。
次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2006-05-15 07:15 | ブログ

第四十三話 「打放しコンクリートの日本を代表する作品とその建築家」 菊竹 清訓

 戦後の日本を代表する打放しコンクリートの住宅作品として、1958年菊竹先生の自邸:スカイハウスがあげられます。
その形状は打放しコンクリートからなる空中に持ち上げられたような正方形の平面ワンルーム。
メタボリズムの原点といわれています。
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そのメタボリズムとは、来たるべき社会の姿を具体的に提案するグループの名称だそうです。
その発生源は、1960年東京産経ホールに世界26ヶ国よりデザイナーが集結、そこで世界デザイン会議が開かれ、その成果は日本インダストリアル・デザインやグラッフィックデザインの世界に大きな影響を与え、これを起爆剤として当時の若手建築家を中心としてメタボリズムが結成されたそうです。
その一人が菊竹先生。
菊竹先生は戦後の物質不足のなか、有効利用できる部材は転用する生活実態体験から、「とりかえ」のシステムを構築、つまり取替え可能な住宅を作る。
これが菊竹先生の自邸:スカイハウス、極めて現実的で合理的な発想ですね。メタボリズムの先見性が実証された住宅作品として高い評価。
時は1958年、世界デザイン会議の二年前のこと。
戦後の日本、壊滅的な破壊によって物資不足は頂点に達していた時代から復興へ、こんな背景が生み出した建築の手法か。
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1945年(S20)、B29爆弾攻撃による空襲で破壊された国鉄浜松工場(現、新幹線車両整備工場)
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打放しコンクリートの住宅作品、スカイハウスの外、1963年:出雲大社庁の舎、1968年:島根県立図書館、1964年:久留米市民会館そして1974年:パサディナハイツの五つが打放しコンクリート作品の代表作として良く知られています。
菊竹先生の一端を知り、その打放しコンクリートの代表作を見ると菊竹先生特有のものを感じさせますね。
菊竹先生はメタボリズムの実践者として活動し続けたそうです。
次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2006-05-08 07:27 | ブログ

第四十二話 「打放しコンクリートの日本を代表する作品とその建築家」 坂倉 準三

 坂倉先生のデビュー作品は1937年の “パリ万国博覧会日本館”です。
しかも、この日本館は万国パビリオン・コンテストで見事グランプリに選ばれ、当時の日本建築界に衝撃を与え、と同時にこの作品によって坂倉先生は建築界のニューヒーローに。
その坂倉先生はル・コルビュジェの元で学んだそうです。
万博日本館を構成する形作りは、モダニズムに日本建築の伝統要素を最初に融合させた作品といわれており、そのモダニズムとは“伝統主義に対立して、常に新しさを求める近代主義的傾向の総称” だ、と言われています。
この程度のことは常識! あっ失礼致しました。
ところで最近、中国と日本の間で何かと摩擦があるようですが、思い返せばこの年1937年、日中戦争勃発、悲劇の序曲があった年でもあります。
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 さて坂倉先生による打放しコンクリートの代表作品五つの中の一つ、羽島市庁舎。
外装を構成する打放しコンクリート、各階に欄干を思わせるバルコニーと構造の明快さ、打放しコンクリートだけが醸し出す自然との調和、見るからに日本の伝統的建築要素が散りばめられている、と高い評価。
続いてもう一つ、東京サレジオ学園。
ドン・ボスコ記念聖堂、聖ヨハネ・ボスコの掃天(きてん)100年を記念して建築された聖堂です。
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 話は変わって当時、前川國男事務所に在籍していた頃の若かりし丹下先生、毎晩坂倉先生のもとに通い話を聞いたそうです。
将来性のある若き多くの建築家に与えた坂倉先生の影響は大きなものだったことが伺えますね。
日本建築文化の礎、坂倉準三先生には、ご紹介した二つの打放しコンクリート代表作品に名を連ねるものとして、1958年:松本幸四郎邸、1993年:BTC新潟センタと1955年:茅ヶ崎公園プールがあります。
その他打放しコンクリート建築以外の有名作品は枚挙にいとまがありません。
偉大な建築家、坂倉準三。
打放しコンクリートを通してその一端を。
 次回をお楽しみに。
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by pikayoshi72 | 2006-05-01 07:21 | ブログ